長谷川研究室で学ぶこと

最近読んだ本『東大教授』(沖大幹著、新潮新書 2014)に、私が日頃考えていることとほとんど同じことが書いてあったので、それをもとに、何のために大学院で研究するのか述べます。

・「わかっている知識をわかるように教えるのが(学部までの)教育。

 (大学院での)研究では、答えがあるかどうかわからない課題に取り組む

 やれば答えが出るとわかっている課題の解決は作業であって研究ではない。」

・「自分自身の能力や(研究室での)研究環境の限界を考慮しつつ、 (なるべく重要で面白そうさ)大きな課題を取り扱う。

 それを易しく解けそうな小問題に分解して、ひとつひとつ段階を踏んで取り組んでいくのが研究の真髄」

・卒業したら大学院での専門と関係が薄い職種に就職する学生が多い。そのような状況で、「(上述の)
研究体験を通じた大学院での教育は、逆にその意義を増している。」

 つまり、今まで誰も解いたことのない、しかも、意味のある課題を設定し、

 その解決の道筋を設計し、

 解決に必要なツール(知識や技能、情報)をかき集め、

 必要なら周りの人の協力やアドバイスなどを得て(チームワークも含む)、

 自分自身をコントロールして、 課題を解決する。

 また、失敗した場合でも前向きな形で後始末する、というプロセスを体験すること自体が重要である

 この体験を通して、「どんな知的職業についても必要とされる技能」が身につく

 つまり、大学院では、何を研究したかではなく、研究した体験そのもの、すなわち、どう研究したか、が重要であり、それらは後々必ずや役に立つ」。

・「先行研究が無いし、どうやっていいのかわからないから、できません。」「必要な物理量やパラメータの値がわかっていないから、議論できません。」と言って思考停止に陥る学生がいるが、その壁をどうやって破るか、あるいはどうやって壁を避けて前に進むか、が問われているのです。

 他の系のデータを援用したり、他分野の方法を借りてきたり、大胆な近似をしたり、いろいろな手を尽くして前に進むことを期待しているのです。

 「先生は無理難題を押し付ける」と言って避けていく人は、たぶん就職後も同じように後ろ向きの人生を送ることになるでしょう。

 また、たとえ、設定した最終ゴールにたどり着かなくとも、後に続く者に役立つ形で「後始末」をすることが極めて重要で、その体験は本人にとっても最大の「収穫」となるでしょう。

 当研究室では、「失敗」と書いて「セイチョウ」と読みます。


参考になるかもしれない本:

長谷川修司著『研究者としてうまくやっていくには』(ブルーバックス 2015)